日本の戦国時代の三大梟雄(きょうゆう)とも評されている松永久秀。
近年の研究では、「忠義の人物」ではないかと、再評価される動きも出ています。
少なくとも主君・三好長慶に謀反(むほん)を起こしたり、横暴な振る舞いや態度をとったことなど 一次史料からは確認できないと。「松永久秀 歪(ゆが)められた戦国の“梟雄(きょうゆう)”の実像」(宮帯出版社)
松永久秀の名言に学ぶとともに、DNAを受け継ぐ子孫をまとめてみました。
松永久秀の名言
1「世間の人は嘘を云いくるめて、嘘ばかりの世の中に暮らしている。故、たまたま真
実ばかり申す者が現れると、それが嘘だと思ってしまう。」
現在の政治、社会状況を見ると、この名言が心に響きますね。先入観を排して、しっかりと現状を見つめて、何が真実かを見極める目を鍛えたいですね。
2「日ノ本一の正直者ゆえ、義理や人情という嘘はつきませぬ。裏切られるのは弱いか
ら裏切られるのです。裏切られたくなければ、常に強くあればよろしい」
この名言は久秀が信長を裏切り降参した後、信長に言った言葉です。
解説見つからず個人的な解釈ですが三大梟雄(きょうゆう)伝説があるように、力ある所を行動で知らしめ恐怖心を煽って、裏切りを許さないど、という生き方か・・・。
3「名を惜しむ勇士は死に際の養生こそ心がけるものなり」
自害の直前でさえ、灸の用意を命じ、部下から「この期に及んで養生もないでしょう」と言われたが、久秀は「百会(脳天)の灸を見る人は、いつのための養生だと、さぞおかしく思うであろう。だが我は常に中風を憂う。死に臨んで、俄かに中風を発し、五体が動かなくなれば、きっと死が怖くてだろうと笑われる。そうなれば今までの武勇は悉く無益なことになってしまう。百会は中風の神灸なれば、当分その病を防ぎ、快く自害するためのものである」と語って灸を据えさせた後に自害したという(『備前老人物語』)。久秀は年老いても自害を見事に果たせる武将でありたいとの思いがあったものと推測されている。
武士(もののふ)とはかくあるべし。と、死に際しても確実に貫きたいとの思い、覚悟は凄いですね。なかなか凡人にはマネ出来ませんね。
4「平蜘蛛の釜と我らの首と二つは、信長殿にお目にかけようと思わぬ。粉々にうちこ
わすことにする」 『川角太閤記』より。
松永久秀が籠城する信貴山城を包囲した佐久間信盛から、天下に名高い茶器・平蜘蛛を渡すよう呼び掛けられた際に返した言葉とされる。
敵には、亡くなった後でも降参しない、という生き様。カッコいい。
家系図と子孫
松永久秀ー正室:松永女房(久通の母)継室:広橋保子。
松永久通ー松永一丸(久秀の孫・商人)。
松永久秀ー松永永種(養子)ー松永貞徳(久秀の甥孫・俳人)。
貞徳の子・松永五尺(儒学者・久秀の甥曾孫)
・久秀の子・久通は信貴山城の戦いで父と共に自害しています。
・久通の子・松永一丸(久秀の孫)は博多で生き延び、質屋を営んで大変に儲けたと言
われています。
・久秀には松永永種という養子がおり、久秀の死の頃には出家していたため生き延びま
した。その息子は松永貞徳と名乗り、俳人として活躍したそうです。
・貞徳の息子、松永五尺は徳川家康の時代に大変高名な儒学者となりました。
久秀の子孫は文化人として活躍しており、現代にも久秀の血は受け継がれています。
・陸軍中将の松永貞市。
・iモードの名付け親で玩具メーカーのバンダイやロート製薬の取締役をつとめた
松永真理。
・芸能事務所社長の太田光代(旧姓松永光代)など。
まとめ
この記事の情報はすべて、以下のサイトを参照させていただきました。(感謝)
参照元:松永久秀 - Wikipedia
https://history-men.com/matsunaga-hisahide/
松永久秀の名言は、情報が限られていましたが、今のご時世にもしっかりと活かせるものです。名言に学んで、今際(いまわ)の際まで、しっかりと生き抜きたいものです。
本日も、最後までお読みいただきありがとうございました(感謝)